みどりさんといっしょ時空
サイコパスヴィランハヤトおにいさんと
一緒に遊ぶ羽目になったやしろおにいさん
※暴力表現あり
※フィクションです。演技です。
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切欠は、些細なものだった。
羨望と嫉妬から生まれた小さな悪意。悪戯心と欲しい物を得た興奮、ひたひたと迫る罪悪感、根拠の無い意地。
『ごめんなさい』の一言が言えなかったばかりにこんなことになるなど、子供には——否、大人でさえも想像がつかなかったろう。
「いいから早く逃げるんだよ!」
「でも……」
「走れ!」
赤く染まった夕闇の空からはヘリコプターのローター音が降り注ぎ、黒塗りの車が何台も走り回っている。都会の雑踏に紛れ込みきれない黒スーツが幾人も眼を光らせている。何も知らない一般人が奇異の視線を向けて来るが構ってなどいられない。
しかし少年の手を握りながら駆ける男には薄々分かっていた。IT会社勤務の社畜の体力は男子小学生にも敵う筈が無く、そして相手はあまりにも容赦が無いと。
「……っ!」
「おにいさん!」
足が縺れた拍子に路地裏のゴミに躓いて地面に転がる。首から提げた社員証とTシャツが泥に汚れるが、顔を上げた瞬間視界に入ったのは男の背後を見詰めながら恐怖に立ち尽くす少年の姿だった。
その見開いた双眸の先に何があるのかを確かめる前に、傍に転がっていたビール瓶を掴んで跳ね起き、振り返り様に薙いだ。
「……おやおや、危ないですよ。こんな物を振り回しては」
「っく、やっぱりか……加賀美ハヤト!」
それは場にそぐわぬ落ち着いた、優しげでさえある声音だった。
涼しげな美貌に浮かべた儚い微笑はこんな場所には不釣り合いな程優雅だ。それでいて男の武器を持つ手首を掴んで押し留める力は酷く強い。
焦燥混じりの裂帛をぶつけられようと、男がよく見知った若き敏腕社長——加賀美ハヤトは表情を変えなかった。それどころかコテンと小首を傾げてみせる。普段ならば可愛いと評価される仕草だ。
「どうして? 社さんこそ、どうして庇うんですか? その子は他人の玩具を盗った悪い子なんですよ。きちんと叱らないと」
「お前、自分が何してるのか分かってんのか!」
「何って……社さんの言葉を借りるなら、『教育』ですよ」
「ひっ……!」
色素の薄い双眸がついと流れ、男——社築の後ろで震える少年に向けられると声にならない悲鳴が上がった。当然だ。社だって子供の前でなければそうしている。聖人君子のような笑顔が今はただ不気味だ。
心優しい人間だと思っていた。慈悲深く、情に厚く、時に甘い。それが魅力である筈だった。だから時に行動方針が異なっていても共に歩んでいた。それを心地良く感じた。
変えたのは己の所為ではない。社に非があるとすれば、その本性を垣間見る切欠に触れてしまったことと、それを是正しようとしなかったことぐらいだろう。背筋に汗が伝って冷える。
何処かで止めなければならないとは思っていた。だか同時に、社は恐ろしかったのだ。貴方の為だと語る口振りと、真なる心情を覆い隠す笑みと、意気投合した友人の喪失が。
しかしもう、覚悟を決めねばならない。
「……お前は今の内に逃げろ。ここは俺が足止めする」
「おにいさん……」
「いいから行け!!」
夜気を震わす低い怒声に少年の肩がビクリと跳ね、直後に踵を返すと駆け出した。啜り泣く声と足音が消える前に、社は何故か満足げに一瞬笑みを強めた加賀美の腹を思い切り蹴飛ばす。フォームは散々だが不意打ちとして入ったか、くぐもった息と共に相手が数歩後退った。
革靴から伝わる肉の感覚に顔を歪めながらも掴まれていた手は解放され、その隙を逃さず続け様に両手で握ったビール瓶を上段から振り下ろした。頭を狙ったが当たるなら何処でもいい。ただそれが本当に命中すればどうなるかは分かっていて、艶のある茶色の髪がふわりと揺れる中、社は思わず両眼を固く閉ざした。
「……ふ、ふふ。良い声出るようになりましたねぇ」
「……誰かさんのボイトレのお陰でな。ついでに動けるようにもなった」
「良いことです。身体は資本ですからね」
手応えは何も無く、代わりに小さな金属音が胸元で起こった。
恐る恐る瞼を上げて視線を落とせば、再度間合いを詰めた加賀美の右手が社の心臓の上に当てられている。
正確には、黒い金属の塊ひとつ分を挟んだ状態で。
「……私のことも消すのか?」
「ええ、とても残念ですが、邪魔をするなら仕方ありません。私、結構気が短いので。ご存知でしょう?」
ゲームやアニメや漫画の中で幾度も見てきたからか、あまりに現実味が薄い展開だからか。押し付けられた小銃はまるでプラモデルか何かのように思えた。
整った顎が小さく動いて差し示した通り、ビール瓶をその場に落としてから無抵抗の意思を示すように両手をゆっくりと持ち上げる。丈夫なガラスは割れることなく重い音を立てたのみだった。
現状はただただ不利だ。己は手札も場にも頼れるものは何も無く、対して相手のリソースは膨大。最早これまでと投了してしまいたくなるが、それでも生き残る一手を、奇跡の切り札を脳内で探し続ける。
流れる過去の映像は俗に走馬灯と呼ばれるものだったかもしれないが、ふとかち合った視線の合間に何かが見えた気がした。
「……なぁ、折角だからもうちょっと私と遊ばないか」
「遊ぶ……ですか?」
「そうだ。何でもいい。お前の好きなことをしよう」
「……ふふ。社さんのそういうところ、好きですよ」
サラリと流れた前髪の向こうで数度瞬いた後、加賀美の表情が実に楽しげに咲く。それに合わせて社もまた口角を上げた。威嚇と挑発めいたそれは、相手ならば己の意を解すという期待の表れでもあった。
加賀美が社を相手する必要は無い。人差し指を少し動かせば終わるし、そうでなくとも姿が見えないだけで取り巻きが周囲に潜んでいる筈だ。命じれば貧弱な獲物1匹、すぐにでも捕獲なり排除なり出来る。少年だってそうだ、格好を付けたはいいが、逃げ切れるなどとは社も殆ど思っていない。
だがもしかしたら、ここで己だけに集中させれば最悪の事態は免れるかもしれない。
ここまでは分かっていた。分かっていたからこそ、その先の闇が社の心を掻き乱す。
「いいですね、遊びましょう、社さん。もう悪い子を逃すなんて悪いことをしないように、教えて、思い知らせて、楽しませてあげますよ」
「……ああ、そうだな」
「じゃあ最初は、ストリートファイトなんてどうですか? ほら、ここ丁度良いですし、一度やってみたかったんですよねぇ。……本当はいけないことですけど、悪い子相手では仕方ありません」
「……確かに、漫画みたいだ」
如何にも心躍らせて声を弾ませる加賀美とは対称的に、社の頭は冷却と加熱の間を行き来する。
そうじゃないだろう。コンプライアンスは命より重いんじゃなかったのか。お前はそんなことをする人間ではないのに。
気持ちは分かる。路上での大立ち回りを夢見たことも確かにあった。自分の立場も社会の枠組みも全部かなぐり捨てるのはさぞ爽快だろう。
けれど、何故。何故こうなったのか、加賀美がどうしてこんな人間となったのか、社は考える。
人助けのつもりなのか、正義の執行をしている気なのか、その肩書きの意味をはき違えているのか、子供同士の遣り取りが余程何かに刺さったのか——単に面白いことをしたいだけなのか。
分からないならば相対するしかない。可能な限り手の内を読んで最善手を取るしかない。思考を放棄したら負けるに決まっている。とりあえずは一手凌いだ。これを繰り返せばいい。
「……さぁ、楽しみましょう、社さん」
そして深淵は緩やかに笑った。
『——悪いお友達でしたねぇ。でも、もう大丈夫ですよ』
広い部屋に幾度目かの吐息が落ちた。
そこはさながら玩具箱をひっくり返したような場所だった。リノリウムの床の上には未開封のプラモデルやフィギュアの箱が積み重なり、大きなテーブルには幾枚ものトレーディングカードが散乱している。本棚に入り切らない漫画やゲームソフトも床に塔を作り、それ以外にも様々な玩具が乱雑に転がっていた。
4人掛けのソファ、ベッド、8Kモニターといった家具だけを見れば高級マンションの一室とも思えよう。しかし異常なのは、ここには一切の窓が無い。時計もテレビもパソコンも無い、静寂が支配する空間だった。
それが唐突に破られたのは、微かな足音、重い解錠音、ドアの軋み、衣擦れ。その主は部屋の隅まで歩んで来ると、徐にしゃがみ込む。
「社さん、起きてください。社さん」
「…………」
その肩を揺すられ、社は重い瞼をゆるゆると持ち上げる。どういう経緯でこんな冷たい床に倒れているのか思い出せなかったが、恐らく原因はろくでもないのでそれ以上は考えないようにした。
もう何日が経ったのかすら分からない。食事時間は毎回ずらされているようで、途中で睡眠薬でも入れられたのか意識が朦朧として数えていた回数も忘れてしまった。風呂とトイレが併設されていることだけは救いだったが、完全な室内生活がこんなにも心と身体を弱らせるとは思っていなかった。
そしてその実行犯である加賀美は、今日も愉しげに笑っていた。
「また沢山買って来たんですよ。パックも剥き放題ですし、新作ゲームも用意しました。今日はどれで遊びましょうか」
「……いや……その……」
「どうしました?」
「……っ、……なぁ、少しだけでいい。皆、心配してると思うから、誰かに一言だけ……——ッ!」
辿々しくかさついた声音が終わる前に頬に衝撃が走り、口の中に苦味が広がる。一度は縋るように持ち上げた上体が再び床に落ち、咽せて咳き込む拍子に紅が散った。
「まだそんなことを言っているんですか? 懲りませんねぇ」
「……っぐ、待てっ……! 俺が、悪かっ——カハッ……!」
「遊ぼうと言ったのは貴方じゃないですか。ほら起きて。私も結構忙しいんですからね」
「……ッ!」
穏やかな口調である筈なのに、そこに介在するのは無邪気な我儘と、容赦の無い暴力だった。
近付けば顔が映りそうな程磨かれた革靴の爪先が鳩尾を抉ったのを皮切りに、乱暴に蹴飛ばし、踏み付け、襟首を掴んで無理矢理持ち上げる。首を締められ苦悶する過去の友人を見下ろした眼差しは澄み切っていて、故に酷く冷たい。
「……わ、かった、付き合うから……」
「それは良かった」
苦渋の声を何とか絞り出したのを聞き届ければ、ぱっと手を離すと同時に酸素供給が再開され、社は再び咳を繰り返す。
それを眺める加賀美にとって、その友情は決して過去のものではなかった。数多の痣や生傷を負った彼は大事な遊び相手のままだ。だから誰にも邪魔されないように、逃げないように閉じ込めて、鍵を掛けた。
玩具ならば幾らでも持って来よう。衣食住は完備している。後は悪いことさえしなければ、いつでも2人で遊べるのだからこんなに幸せなことはない。ただ随分弱っているようだから、今度はランニングマシンでも入れようか。恍惚としながら夢に合わせて腕を広げてみせた。
「……ああ、貴方を見ていると、色々とやりたいことが浮かんで来て困りますね。あの子はすぐ、ずっと謝ってばかりでつまらなかったんですが、やっぱり社さんは違います」
「……あの子……? ……おい、やっぱり何かしたのか……?!」
「いえいえ。勿論ちゃあんと、お家に返してあげましたよ?」
「な……そう、か……良かった……」
一拍遅れて共に追われていた少年のことだと気付いた社は、その返答にようやく安堵の溜息を吐いた。今までどんなに問うても秘密だと言われ続けていたのだが、ようやく確固たる返答を得られたことは進歩と見るべきだろう。
——酒に酔った人間は、自分が酔っていると自覚出来ないという。
社もまたそれに近い状態であったのだが、疲弊と負傷で暈けた頭は自らを鑑みる機転さえ失っていた。幾ら厄介事を持ち込んで来たからって、子供が不条理な罰を受けることは望まない。流石にそこまで酷ではなかったかと、不思議とふわふわとした感覚の中で胸を撫で下ろした。
帰宅したとは言ったが、無事で、五体満足だとは言っていない。——警鐘が何処かで鳴った気はしたが、それはあまりにも小さなものだった。こんな単純なロジックに騙されたまま、無理矢理重い身体を起こす。
「……じゃあ遊ぼうか。さ、どれがいいんだ? またドラフト戦をしようか? それとも将棋か、オセロでもいいぞ?」
「…………」
ゾンビのような動きと眼をして、椅子に腰掛けてからも何の追及も無い社を加賀美はじっと見返す。入れ替わるように社は機械的な笑みを浮かべ、加賀美は静かに表情を消した。
切欠は、些細なものだった。
真意などもう見えはしない。伏せられたままの手札は開かれない。だから重なり合ったスリーブの中にあるのが、破り捨てられた欠片を拾い集めて繋げたものか黒く塗り潰された代用品なのかも分からない。
それでも加賀美は向かいの椅子に座る。改めて嬉しげに楽しげに、寂しそうに微笑みながら。
「……ええ、ずっと遊びましょうね。……ずっと、一緒に」